それは、一瞬の出来事だった。
つないでいた手が強引に引き離され、双子の姉のマイがこの世から消えた。
ブレーキの音。機械がぶつかって壊れる音。女の人の悲鳴がその後に続いた。
僕は呆然とその場に立ち尽くしていた。
あれから3年の月日が流れた。
父さんは船の仕事のため、なかなか家には帰って来ない。母さんと僕との二人きりの暮らしがいけなかったのか、僕の家は普通の家と少々違った家庭になっていた。
母さんはマイが生きていると信じ込んでいた。
そのせいで、僕とマイの部屋には2組の机やベッドが置かれている。一方が僕のもので、もう一方がマイのものだ。マイのタンスを開ければそこにはマイのワンピースやスカートが吊るされている。それも、マイの成長に合わせて買い足されているのだ。
そして…
「マイ〜ッ。一緒に買い物に行きましょう。」
階段の下から母さんの声が聞こえた。
僕の名前「マキ」ではなく「マイ」と呼ばれた途端、僕は僕でなくなってしまうのだ。
「は〜〜い。」
僕の身体は勝手に返事をすると、マキのタンスからスカートを取り出して着替え始めていた。
不思議な事にマイの服を身に着けると、僕の肉体に変化が現われる。
何もない胸に着けられたブラジャーのカップを埋めるように胸が膨らんでいくのだ。
下半身については変化の過程が見れる訳ではないが、マイがトイレに入った時にソコも変化していた事を確認している。
母さんの一言で、僕は「マイ」になったり「マキ」に戻ったりしている。
いつも、僕は考えている。
事故で死んだのはマイではなく、僕だったのではないのかと。
僕は幽霊のようにマイに憑依しているだけの存在ではないのかと。
タンタンタンとマイが階段を降りて行く。
僕はマイの裏側で事の成り行きを見守っているだけだ。
「今日はパパが帰って来るから御馳走よ。」
二人してスーパーの中を買い廻るのをぼーっと眺めている。
台所でエプロンを着け料理を手伝っているマイ。
父さんの帰宅時間に合わせて料理が作られ、白いワンピースに着替え、母さんと二人で時計を眺めている。
僕は第三者的な視点からそれを眺めていた。
ピンポ〜〜〜ン。
ドアのチャイムが鳴った。
母さんが扉を開ける。
「お帰りなさい。」
父さんに飛びつく母さん。
そして、
「お帰りなさい。パパ。」
マイが歩み寄る。
「…」
一瞬の沈黙。
父さんは母さんの腕を振りほどき、マイを見つめた。
「マイ?」
父さんは視線を母さんに向ける。
「マキは?」
「受験生ですから。まだお部屋でお勉強していますわ。」
二人を押し退けるように父さんは階段を昇っていった。
その後を母さんとマイが続く。
「入るぞ。」
律儀にドアをノックして父さんが僕等の部屋に入った。
当然そこにはだれもいない。
振り向いてマキを見つめる。
「お前はマキなんだろう?」
「何いっているの?パパ。あたしはマイよ。」
父さんの掌がマイの胸に触れる。
「エッチ。」
マイが両腕で胸を覆うが、父さんの掌は確かにマイの胸に触れていた。
父さんは触れた掌をじっと見つめていた。
「な、なんて事だ。」
そんな、深刻そうな状況を母さんの能天気な声が割って入る。
「さあさあ、下にもどりましょう。御馳走が冷めてしまうわよ。」
呆然としている父さんを引きずるように降りて行く。
そして…
「マキもお勉強を切り上げて降りていらっしゃい。」
その声で、僕は僕の身体を動かせるようになった。
「ちょっと待ってて。」
それは、僕自身の声だった。
急いでワンピースを脱ぎ、自分の服に着替える。
脱いだ途端に、胸の膨らみが元に戻る。
階段を降りて行くと、父さんの視線が突き刺さった。
「お前はマキだな?」
「そうだよ。父さん、お帰りなさい。」
「マイは?」
「パパが変な事するから拗ねているんでしょう。放っときましょうよ。」
「父さん。その事は後で話すから。」
僕が目配せすると、父さんも取り敢えず納得したようだ。
食事が終わり母さんが後片付けをしている間、僕は父さんを部屋に呼んだ。
「父さん。僕、何か変なんだ。」
僕はベッドの端に座り、父さんは椅子に座ってもらった。
父さんはキョロキョロと部屋の中を眺め廻す。
「確かにおかしい。私の娘のマイは3年前に死んだ筈だ。しかし、この部屋にはマイの3年間の成長が刻まれている。それに、さっきまで白いワンピースを着ていたのは確かにマイだった。」
父さんの瞳がじっと僕を射抜く。
「あのマイはお前だったのだろう?」
「うん。だけど、僕じゃない。姉さんそのものなんだ。」
「どういう事だ?」
僕は頭のなかで言葉を整理して言った。
「母さんが姉さんを呼ぶと、僕は僕でなくなってしまうんだ。僕の身体は姉さんに乗っ取られてしまうんだ。僕はただ見ているしかない。何もできないんだ。父さんにこうやって話しができるのも、僕に戻れたから出来たんだ。」
「…二重人格か?…」
父さんが呟く。
「けれど、さっきのお前は本当にマイだった。それに、胸も…」
視線が僕の胸に注がれる。
「マキ。ちょっと服を脱いでみろ。」
僕は言われた通りに上半身裸になった。
「これは男の子の胸だなぁ。」
「けど、姉さんが姉さんの服を着ると変わってしまうんだ。」
「変わる?」
「うん。僕の肉体そのものが姉さんになってしまうんだ。」
「つまり、あの胸になると?」
「うん。」
「それは、マイが自分で服を着た時だけの現象なのか?」
「どういう事?」
「つまり、お前がマキでいる状態でマイの服を着た時にも起こるものなのか?と言う事だ。」
「そんな事やった事がないよ。」
「じゃあやってみるんだ。」
「今、ここで?」
「そうだ。さっき着ていたワンピースで良いから。」
「判った。」
僕はさっき脱いだ服を手に取った。
いつもマイの着替えを見ているし、僕に戻った時に服を脱ぐのは僕の仕事になっていた。だから、マイの服を着るのは初めてだが、それ程の苦労もなく着る事が出来た。
はたして、僕の肉体は変化していった。
「父さん。」
それだけで理解したようだ。父さんの前に立った僕の胸の父さんの掌が触れる。
「確かに、肉体が変形している。声帯にも変化があるみたいだ。ベッドに横になってみろ。」
言われた通りにした。
父さんは本職の医者に戻っていた。
スカートをまくり、ショーツを降ろす。
「完璧だな。」
一通り診察を終えて父さんは椅子に戻った。
「マキ、そのまま服を脱いでみてくれ。」
「全部?」
「そうだ。」
言われるままに、僕はワンピースを脱いだ。
シミーズの下にはブラジャーしかしていない。ショーツはさっき父さんに脱がされたままだった。
「さあ。」
父さんが促す。
シミーズを脱ぎ、ブラジャーを外した。
そこには少女の裸体が晒されていた。
「じゃあ、お前のパンツを穿いてみろ。」
ベッドの上には男物の衣服の山と女物の山があった。男物の山からブリーフを抜き出して穿いた。
その途端、肉体の変化が始まった。
胸が平らになり、股間が復活する。
「判った。もう服を着ても良いぞ。」
僕が服を着ている間に父さんはどこかに電話を掛けていた。
翌日、僕は父さんの知り合いの病院に連れていかれた。
一緒に持ってきた鞄にはマイの服が入っている。
昨夜と同じ事が繰り替えされた。
違うのはそこが病院の診察室である事と、機械から伸びた線が身体のあちこちに張り付けられている事だろう。
医師と父さんが深刻そうに話していた。
僕はマイの服を着たまま、廊下の椅子で待っていた。
暫くして父さんが出てきた。
「母さんを連れて来るからお前はここで待っていなさい。」
父さんが行ってしまった後で医師が声を掛けてくれた。
「こんな所で待っているのも退屈だろう。控室で本でも読んでいれば良い。お父さんが戻って来たら呼んであげるから。」
そう言って一人の看護婦に案内させた。
マイの服を着たままだったので、僕の事を女の子と勘違いした看護婦はオレンジジュースと何冊かのファッション雑誌を置いていった。
好意を無駄にしないように、僕はパラパラと雑誌をめくりながら時間を過ごしていた。
「マキちゃん。お父さまがお見えになったわよ。」
ドアがノックされ、僕をこの部屋に連れてきてくれた看護婦が入って来た。
彼女に指示されたドアをノックする。
「どうぞ。」
と中から医師の声がした。
ドアを開けると数人の医師と父さん、母さんがいた。
「あら、マイも来ていたの?」
その声に、僕の身体はマイのものになった。
「マキ君。聞こえていたら手を上げてみて下さい。」
医師の声に従って手を上げようとするが、今この身体はマイの支配下にあった。
声を掛けた医師は納得したように頷いた。
「マイさん。もう一度廊下に出てもらえませんか?」
「はい…」
マイは状況が判らないまま、医師に従いドアを開いた。
耳を澄ますと部屋の中の話し声が聞こえる。
「では、お母さん。今度はマキ君を呼んでみてもらえませんか?」
暫くして母さんが僕を呼んだ。
「マキ。」
その途端、僕は身体の自由を取り戻した。
「入ります。」
僕はマキの服を着たまま、母さんの前に立った。
「君はマキ君だね。」
先程の医師が声を掛ける。
「ハイ。」
マイの声で僕が答える。
「うそよ。この娘はマイだわ。」
母さんの声と伴に、僕の自由は再び失われた。
「あなたはマイさんですか?」
「はい。」
マイが答えている。
医師達の間で論議が始まった。
「君たちは席を外していた方が良いだろう。」
と、母さんとマイは別室に案内された。
しばらくして父さんが戻って来た。
「母さん。マキとふたりだけで話がしたいんだが、ちょっと席を外してもらえないか?」
「マキはここにはいませんよ。」
「そ、そうだったね。じゃあ、先にマイと話しをするから。」
「わかりました。外に出てれば良いのね?」
母さんが出て行ったのを見届けると、父さんは僕に言った。
「すまなかったね。マキ。こんなになるまで放っておいた父さんがいけなかったんだ。」
「パパ?何いっているの?あたしはマイよ。」
「判っている。けれど聞いて欲しい。」
そうだ。父さんはマイの裏にいる僕に向けて話しているんだ。
父さんは話しを続けた。
「母さんの事は私がついていれば、時間が癒してくれるだろう。問題はお前の方だ。そもそも、お前の身体の事がもっと前に判っていれば、母さんもこんなにならずに済んだ筈だ。」
父さんがマイの瞳を通じて僕に語りかけている。
「これから話す事に驚かないで聞いて欲しい。」
父さんの手がマイの両腕をギュッと握り締めている。
「お前は…」
次ぎの一言を言う為に呼吸を整えている。
「お前は、女の子だったんだ。」
「何言ってるの?あたしは昔から女の子よ。」
「お前も薄々は感じていた筈だ。だから、母さんがマイを呼ぶとお前はマイになりきってしまえるのだ。女の子の服も抵抗なく着れるし、マイとして自然に振る舞えるんだ。しかし、自分は男だという意志の力が肉体と反発しあい、マイというもう一つの人格を造り出したんだ。そして、マイでいる間を本来の女の子として過ごす事が出来たため、本来の人格に戻った時、肉体の男性化が顕著化したのだ。」
マイはじっと聞いていた。
僕は頭の片隅で父さんの言う事を理解していたが、その他の部分でそれを真っ向から否定していた。
「暫くすれば、母さんも元に戻る。もう、お前がマイでいる必要もなくなるんだ。」
父さんは僕の身体を抱き締めた。
ほっぺたに父さんの髭がチクチク当たる。
そして、雫が流れ落ちた。
「父さん?」
呼びかけたのはマイではなかった。
半年が過ぎた。
父さんは船の仕事を辞め、近くの病院に勤務している。
半年前までのドタバタも落ち着いている。
「マキ〜。遅れるわよ〜。」
「ハ〜〜イ。」
僕は胸のリボンを結びながら階段を降りていった。
もうマイが現われる事もない。
そして、残念だったけど男の子のマキもいなくなった。
「いってきま〜す。」
セーラー服の裾を翻して飛び出して行く。
僕は女の子として自然と社会の中に溶け込んでいた。
「おはよう。」
女友達の輪の中で、僕は幸せを感じていた。
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