鏡の魔法



 確かにそのホテルに予約していた。
 陽も暮れ、辿り着いたホテルは旅行会社から渡されたパンフレットとは全く異なっていた。
 パンフレットにあったホテルは何の変哲もない、コンクリートの立方体でしかなかったが、目の前にあるのは『由緒正しき』を地で行く洋風の建物だった。しかし、ホテルの住所も名前も合っている。更には僕の名前で予約がちゃんと入っているのだ。このホテルに間違いはないようだ。べつに寝る所がなくなった訳でもなく、宿泊費は旅行会社経由ですでに払い込まれていることも確認できたの。今更、事を荒立てることもないと、僕はルーム・キーを受け取った。
 こじんまりしたホテルは季節外れのせいか、フロントの男の他に人影が見えない。まあ厨房には誰かいるだろうが、一人の客もいる様子がない。もっとも、独りになりたくて旅に出た僕にとっては充分過ぎる程のシチュエーションだ。指定された部屋は3Fの一番奥だ。エレベーターを降り、スーツケースを引っ張って廊下を進む。突き当たりのドアは既に開かれていた。部屋は意外と広く、上等のベットが置かれていた。窓には床までのカーテンが掛かっていたが、それは上げ底のような小細工ではなく、充分に広い窓がその裏側に隠されていた。もっとも、既に辺りは真っ暗で何も見えなくなっていた。年代を感じさせる椅子や机、そしてクローゼット。明かりとトイレが最新式という事を除けば、中世のヨーロッパにタイムスリップしたかのようだ。
 ただ一つ、部屋の真ん中にある鏡がそんな気分をぶち壊してくれる。姿見にしてはそいつは堂々とそこに在る。意識してそいつを無視することにして、そくさくと僕はスーツケースからアルコールを取り出すとグラスに注いだ。

 酔いが廻ったか、ふと気が付くと目の前に鏡が飛び込んでくる。アルコールは、そいつを無視しようとする気力を萎えさせてしまっていた。さらに、正常な思考も出来なくさせていた。鏡に写っているモノをとっさに判断することなど出来ようもない。鈍りきった脳髄が取り合えず目にしたものを認識する。鏡に写っているのはモノではなくヒトである。更に言えば、それは全裸の女性が椅子に座ってこちらを見ているのだ。
「なんでこんな所に?」僕は立ち上がり、その女性に近づいていった。すると、その女性も椅子を離れてこちらに来る。鏡の所で二人は向かい合った。
 そして、はたと気付いた。その女性は鏡に写っているのだ。振り返り部屋を見回すが、僕の他に何誰もいやしない。鏡を見る。そこに先程の女性が立っている。そして、僕の姿は写っていない?
「まさか?」あわてて自分の姿を確認する。ちゃんと、僕自身であるし、服も着ている。
 しかし、鏡には僕の姿はなく、全裸の女性が写っているのだ。すでに、それは鏡とは言えない。部屋の中が左右入れ違った別の部屋を覗く『窓』でしかない。それにしては、女性の裸を覗いている僕自身は最低の男なのだろう。彼女は僕に見られているなどとは露とも思わずにこの窓の前に立っているのだろう。僕の視線は彼女の胸元に落ち、さちにどんどん下へと下っていく。見え難いのでグイと体を乗り出す。しかし、酔った体はバランスを崩す。ドシン、と窓の向こうに落っこちてしまった。

「キャッ!!」女の驚く声がする。したたかに尻を打った僕は立ち上がると打った所をさすった。
「?!」違和感があった。振り向くと口許に両手をあてて硬直している女性がいた。彼女は窓の向こうに居た女性だった。僕が向こうから見ていた時と同じに全裸のままだった。
 その向こうに『窓』=『鏡』があった。
 それは『鏡』に戻っていた。硬直している彼女の後ろ姿が写っている。そしてもう一人、こちらを向いている彼女が写っている?!僕は先程の違和感の正体に気付き始めていた。今、僕は彼女と同じに何も着ていない。さすった手はズボンの布越しではなく、直接肌に触れていたのだ。さらに、さすられた僕の体もまた、彼女と寸分違わぬ体となっていたのだ。
「あ、あなたはわたし?」彼女は硬直から立ち直っていた。
「成功したの?」彼女は振り向くと鏡に向かった。鏡には瓜二つの全裸の女性が写っている。その内の一人が前に出る。手を伸ばし、鏡に触れる。すると、水面に手を触れたかのように、鏡面に波紋が広がる。彼女は両手を鏡面に付けると、フッと軽くジャンプした。すると、ススーッと彼女の体が鏡に飲み込まれてしまった。
 僕は呆然と立ち尽くしていた。
 暫くすると鏡面から波紋が消え、元の鏡に戻っていた。鏡には彼女の姿をした僕がただ一人写っているだけだった。不意に呪縛が解け、僕は鏡に走り寄った。すでに、鏡は鏡でしかなく、触れても波紋の立つこともなく、その向こうに手を伸ばすことも出来ない。ただ、全裸の女性を写しているだけだった。
「どうなっているんだ?」その問いに答えてくれる者は誰もいなかった。
 仕方なく、僕は部屋の中を検分し始めた。すぐに気づいたのは机の上。僕の机の上には酒のビンが置いてあったのだが、ここには一冊の本が置いてあった。開いた本のページには『鏡の魔法』と題が付いていた。「この世界がいやになったら鏡の向こうにいってみませんか?これは、鏡の向こうの貴女と入れ替わる呪文です。…」
「つまり、こうなったのは彼女が魔法を使ったからか。それじゃあ、もう一度この呪文を使えば、僕は元に戻れるんだ。」

 安心すると同時に心にゆとりができた。さらに部屋の検分を進めることにした。部屋の造りは僕の泊まっているホテルと左右の別を除けば寸分違わない。引き出しの中のリーフレットも同じホテルの物だ。(幸いにも鏡文字にはなっていなかった)聖書が見つかった他はクローゼットの中も空っぽだった。彼女の荷物は全てスーツケースに納まっているようだ。スーツケースには彼女の服を始め、アクセサリー、化粧道具も入っていた。これ以上、彼女の荷物を調べるのはプライバシーの侵害と思い、部屋の他の部分を見て廻ることにした。が、これといって違いがある訳でない。トイレ、バスルームと来てふと思い立った。
「裸のついでだ。風呂に入ろう。」僕はそくさくとバスタブに入り込み、シャワーを浴びた。始めて触れる女性の身体に多少後ろめたい気持ちはあったが、好奇心がそれより勝っていた。シャワーのお湯が頭上から降り注ぐ。ひとかたまりとなった湯水の流れが胸の谷間を通り過ぎてゆく。全身を流れ落ちてゆく湯水の流れに沿って掌を滑らす。腕から肩にかけて、しっとりした女の素肌を感じる。胸に張り出した肉塊を揉みしだく。引き締まったウエストに腕を巡らす。腹部から下腹部へと滑り降りる。ふっくらとした恥丘の先に指先が触れた時、
「あッU」女の身体が鋭敏に反応した。膝から下に力が入らなくなり、僕はバスタブの中に崩れ落ちた。まだ半分しか溜まっていない湯水が激しい音とともに爆発した。

 シャワーの湯滴が降り注いでいる。バスタブの中に横たわり、僕は指先で秘所を弄んでいた。快感に頭がボーとしてくる。僕の口から女性の甘い吐息が幾度となく洩れ出す。
 いつの間にか、バフタブにお湯が溜まり湯面が肩の線を越えていた。不意に口の中に入ったお湯を呑み込み、むせ返る。そのショックで始めて正気に戻った。
「僕は何をしていたんだ?こんな事をしている時ではない。」ふらつく手足を強いて、バスタブから這い上がる。バスタオルでざっと身体を拭いて部屋に戻る。長い髪からはまだ湯水が滴っている。机の上の本を取り、ベッドの上に倒れ込む。先程の『鏡の魔法』のページを開く。「この世界がいやになったら鏡の向こうにいってみませんか?これは、鏡の向こうの貴女と入れ替わる呪文です。…」
 たしかに、出だしは先程見た通りであったが、その後は全く違っていた。
「この魔法は一度使うと1年間は使用出来ません。」そのあと数ページにわたり真っ白なページが続く。さっきは確かにびっしりと文字が連なっていたはずだ。もう一度、本の頭から一枚ずつページを捲ってみる。所々空白のページが見られるが、『鏡の魔法』のページは他には見当たらない。
「そんなバカな?」僕はもう一度本を見返す。それでもない。3度見返した時不意に睡魔が襲ってきた。

 太陽が昇っていた。
 僕は裸のままベッドに寝ていた。夕べの事は悪夢であってほしいと自分の肉体を見下ろすが、そこには女の肉体が在るだけだった。本を手に取って見ても何も変わってはいない。とにかく、いつまでもこのホテルに居られるわけではない。彼女のスーツケースからショーツやブラジャーなど僕の知る限りの下着を付け、服は無難な所でジーンズとトレーナーにした。化粧など出来る訳がない。イヤリングなどのアクセサリーもやめにした。髪も結ったり編んだりできないので、ブラッシングしただけで背中に垂らした。スーツケースを漁っている時に免許証が見つかっている。免許証には鏡に写った僕の顔と同じ顔の写真が貼ってある。間違いなく当人の物だ。さらに免許入れに挟んであった写真に彼女と一緒に自動車が写っている。車のキーとおぼしきものも見つかった。とりあえずは行動の自由は得たようだ。なんといっても変わってしまった自分の姿が恥ずかしい。このままバスや電車に乗らなくて良いと思うとほっとする。免許証には当然名前も書いてある。『結城 美穂』彼女の名前も判った。
 荷物をまとめてチェックアウトを済ます。駐車場に廻ると写真にあった自動車があった。キーも使える。トランクにスーツケースを放り込み、出発した。
 とりあえずの目的地は僕の部屋。はたして、そこに『僕』は居るのだろうか?

 アパートの前に自動車を停める。駐車場には『僕』の愛車が佇んでいる。階段を昇り部屋の前に立つ。中で物音がする。誰かが居る。ゴクリと唾を呑み込み、ドアを叩いた。
「はい?」カチャリと音がしてドアが開く。
 ドアチェーンの長さだけの隙間が出来る。そこから『僕』が覗いていた。そして僕を認めるとその瞳が大きく見開かれた。
「…あ、あなた…」ドアの向こう側で『僕』が崩れ落ちた。
「とにかく、入れてくれないか?」『僕』はちいさく頷くとカチャカチャとチェーンを外した。

 勝手知ったる『僕』の部屋だが、綺麗に片付いていた。きっと帰ってきた『僕』が朝から掃除していたのだろう。
「君が結城美穂さん?」僕は椅子に腰掛け、床に座っている『僕』を見下ろしている。
「はい…」俯いたまま『僕』が答える。
「何でこんな事を…それより元に戻る方法はないのか?」
「元に戻ることは出来ません。いえ、出来るかも知れませんがあたしは知らないんです。あたしは『あたしである事』が我慢できなくて、別人になりたくて、丁度手に入れた魔法の本にやり方が出ていたのでその通りにしただけなんです。でも、まさかこんな形になるなんて思いもしなかった…」
『僕』が床にヨヨと泣き伏せる姿は傍で見ていてあまり気持ちの良いものでもない。
「で、首謀者の君としてはどうするつもりなんだね?」
「あたしは戻りたくない。あなたさえ良ければこのままにしてもらえませんか?」
「ぬ、ぬけぬけと…」
「でもォ、あたしは元に戻す方法を知らないしィ…」彼女?は顔を上げるとキョトンとして答える。目に涙の後は無い。(うそ泣きだったのか?)
「あ、でも一年たてばあの魔法が使えるからあなたもその身体から出る事が出来るわ。」
「僕は僕の身体に戻りたいんだ。」
「だから、それは知らないって…。でも、探してみるわ。とりあえず一年たったら『鏡の魔法』をやってみて。」
「それまでこのままか?」
「別の身体っていうのも良いものよ。でも、『女』としてはお化粧ぐらいはしなさいね。って言ってもできないか。じゃあ、あたしが教えてあげる。とりあえず、あたしン家行こう。」

 彼女のマンションはかなり立派なものだった。
「これ全部あなたのものだから自由に使ってね。」案内された部屋にはいくつものタンスがあり、それぞれぎっしりと服が詰まっていた。次に鏡台のスツールに座らされる。ずらりと並んだ化粧品の列。
「どれが何をするのか判る?」僕はぶんぶん首を振った。
「ふ〜ん。じゃぁ暫くは毎日手取り教えてあげないといけないわね。」
 彼女の手に掛かるとあっというまに鏡に写る僕の顔がスッキリしてくる。
「次に洋服ね。少なくとも山ん中に行く時以外にそんな恰好しちゃダメよ。」と、じろりと僕を睨んだ。
「ファンデーションもまともに着れないんでしょ。とっとと全部脱いでしまいなさい。」
 僕は言われるがまま、トレーナーとジーンズを脱いだ。
「なによ、そのパンストの履き方は!!〜ん、ホントに一から教えないとダメなようね。」
 パンストとショーツをまとめて脱ぎ捨た。
「ショーツまで脱ぐことはないわ。」
「そんなに乱暴に扱わない。」
「じゃあ、ブラジャーからね。」彼女は僕の背中に回るとブラジャーのカップをあてがった。
「もっと俯いて!!」僕が上体を伏せると彼女の身体がぐっと密着した。その時、僕の尻の間に固いものが押しつけられた。すぐにも、その正体に気づいた。彼女にとってはいくら見慣れている自分の肉体ではあっても、男の身体は正直に反応してしまう。入れ替わる前の僕でさえ、かなり溜まっていたのだから、若い女の裸を目の前にすれば爆発寸前に間違いない。カップの上からあてがった彼女の掌に力が入る。僕の女の肉体が無意識に反応して、下半身の距離をとろうとする。
「なに?」彼女が問い掛ける。しかし、僕の答えを待たずに正解が判ったようだ。
「そうね、あなたの事ばかり気にしていたけど、あたしもこの肉体に慣れる必要があるわね。」
 そう言うと、ブラジャーを持ったままぐいと僕を抱きしめた。
「や、止めよう…」僕の抵抗は一切無視された。ぐいぐいとベットに引きずられてゆく。いかんせん女の身体では男の力にかなわない。とうとうベットに押し倒されてしまった。あっという間ショーツが剥ぎ取られていた。彼女の下半身も剥き出しとなっている。股間にソレが憤り勃っている。仰向けにされる。その上に彼女が伸しかかっている。抵抗する術を知らぬ内にズシリと彼女の体重が乗っかる。下腹部にソレが挟まれる。強引にキスされる。グイと舌が割り込んでくる。乳房を揉まれた。
 『変』な感じがする。素肌に彼女の体温を感じる。それは『不安』でもなければ『恐怖』でもない。もっと『暖かい』が、よりどころのない…『変』な感じだ。
 ジュッと、股間に溢れてくるものがある。彼女の指がソレに触れる。
「アアッ」と媚声が洩れる。
「いくわよ」
 彼女が腰を振る。秘所にソレが当たる。さらに彼女が腰を落とす。ズンッとソレが突き上げてくる。
「ア〜〜ッ」
 怒濤の如く歓喜の流れが押し寄せてくる。僕は一時も踏み止まることができず、その流れに押し流されてしまった。彼女が激しく腰を動かしている。彼女の動きに合わせてソレを受け入れる。女の悦びが全身を駆け巡っていった。

 ベットの中で余韻を楽しんでいた。バスルームでシャワーの音がする。身体を起こすと意外に爽快。何か吹っ切れた清々しさがあった。そう、吹っ切れてしまった。自分が何者であったか。そんなことはどうでも良くなってしまった。こんな満ち足りた人生があるなどとは知りもしなかった。元の自分に戻るなどとは今の僕には考えられない。
 鏡の前に座る。
「こんにちわ。これからのわたし。」鏡に向かって声を掛けると、鏡の中の彼女も優しく微笑み返す。
 これが『わたし』。僕は今日から『わ・た・し』。『結城 美穂』が新しい僕…いえ、わたしの名前。
 素敵な人生がこれから始まる。

−了−


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