魚 外伝



 ある日、一人の若者がやってきた。水槽の前にずっと立っている。
 好奇心から彼に近付いてみた。
 彼がほほ笑んだので僕もほほ笑み返してあげた。彼の口が動く。「やぁ、こんにちわ。」と言っているようだ。防音処理が施されているのか、その声がこちら側まで届くことはなかった。
 
 僕は「人魚」だ。僕は自ら元人魚と名乗る女に人魚にされてしまったのだ。
 彼女と別れ、この施設につれてこられてかなりの年月が経過している。人魚は年を取らないらしく、僕は人魚にされた時の美しく若い女の姿のままだった。しかし、記憶は薄れてゆく。僕は自分が人間であった事を忘れかけていた。そんな時に彼が現れたのだ。
 
 数日後、その若者がベットの前にやってきた。
 僕は昼間は水槽の中で見世物にされ、夜は好奇心旺盛な殿方に肉体を売らされていた。
 彼は枕元に腰掛けると僕に聞いた。「君は人間なのかい?」彼が何を意図しているのか判らなかった。僕は「昔は人間だったと思います。」とだけ答えた。
 若者はそれだけを聞くと何もせずに部屋の外に出ていってしまった。
 
 若者は著名な青年実業家だった。弁護士が立てられ裁判が開かれた。僕も何度か車椅子で出廷することになった。裁判自体には興味はなかったが、車椅子で自由な行動ができる喜びと、移動中に目にする街の景色が僕を満足させてくれた。
 裁判の結果、僕にも人権が与えられた。施設からは解放され、これまでに得られた筈の稼ぎが僕の財産となった。しかし、僕を人間の姿に戻す事は叶わなかった。人魚のままでは、いくら人権を獲たからといっても普通の生活を送ることはできない。結局、これまでの経緯もあって僕はこの青年実業家に引き取られることになった。
 彼の別荘には広いプールがあり、僕はそこでのびのびと泳ぎ回る日々を過ごしていた。いつの間にか僕は彼の妻ということになっていた。ヘルバーは僕のことを奥様と呼ぶようになり、別荘で開かれるパーティーでは女主人としてお客を迎えるのだった。
 休暇が取れると彼が帰ってくる。彼は一所にプールに入り僕を抱き締めてくれる。夜になると今度は僕が妻として彼に奉仕してあげるのだった。
 
 
 更に月日が流れる。先月交替したばかりのヘルパーが電話を置いて僕の所にやってきた。「旦那様が亡くなられたそうです。」努めて冷静に語ってくれた。
 彼も百歳を過ぎ病院での生活が続いていた。こんな姿の僕が側にいてあげられる訳もなく、彼の死を看取ることができないことはお互い心得ていた筈なのだ。が、いざその局面を迎えると悔しさに押し潰されるのだった。
 
 
 ヘルパーがいなくなった。
 この別荘に足を向ける者は誰もいなくなった。僕は世の中から隔絶されていた。単調な日々が続いた。
 窓ガラスは割れ柱は朽ち落ちてしまったがプールの水だけは新鮮に保たれている。このプールと雑草の生い茂るプールサイドだけが僕の生活圏だった。
 泳ぎ疲れた身体をプールサイドに横たえる。暖かな日差しが心地よい。久し振りに肉体の奥が疼いていた。僕は仰向けになり、指を差し込んだ…
 
 
 
 空が青く澄み切っていた。こんな日は、鬱蒼と繁る森の中から哀しげなオンナの喘ぎが風になびいくるという。
 伝説は遠い昔に生まれた。
 
 
 

−了−


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