「ネェ」

 女の声にふと顔を上げと、見知らぬ女の顔があった。彼女はじっと僕の顔を覗き込んでいた。
 僕は読んでいた本に栞を挟み、彼女と向かい合った。
「何か?」
 間抜けな言葉だが、僕には他に言いようが無かった。
「何してるの?」
 大人びた化粧をしているが、まだ高校生だろう。
「本を読んでいた。」
 そう言って、閉じた本を持ち上げてみせた。
「そうじゃなくてェ、何でこんな所で本を読んでいたのォ?」
 少女は持ち上げた僕の腕を両手で引き下ろし、ズイと近づいて来た。
「別に?」
 もちろん、街中でただ本を読むなど考え難いことではあるが、単にそれだけの事だ。
「彼女と待ち合わせ?ッなわけないよねッ?」
 掴んだ腕を支点にして、くるりと僕の脇に嵌まり込んだ。彼女の剥き出しの腕が絡まる。ぐッと、体を押しつけてくる。弾力のある胸が変形している。薄衣を通して温もりが伝わってくる。
「遊ぼう」
 撓垂れ掛かる彼女の髪が僕の鼻の下を掠める。フッと、心地良い香りが通り過ぎる。
「いいかもしれない」
 ぽつりと、僕の口は思いもしない言葉を吐いた。
 ついッと腕が引かれる。彼女が絡み付かせたままの腕を引いて僕をどこかへ連れていこうとしている。腕に連れて、僕の上半身が引きずられ、足までもがフラフラと歩み始める。
「コッチよ」
 彼女の導くまま、右に、左に・・・
 いつの間にか、僕の知らない街角を歩いていた。

                *

 彼女が足を止めたのは、とあるビルの前だった。ビルはどこにもある様な雑居ビルで、これといった特徴は見当たらない。地下に降りる階段があった。押し出されるようにして一段一段降りてゆく。通路に照明などない。非常灯さえもなく、ただ入り口からの外光が反射してかろうじて通路の輪郭を浮かばせる。真っ暗な通路を進んで行くと、更に下に降りる階段があった。先程のより幾分か狭い。暗くて判らないが、柱には『関係者以外立ち入り禁止』の札が貼られているのだろう。降りるに従って、更に暗さが増してゆく。物の輪郭さえ判らない。爪先で段の角を探りながら降りてゆく。彼女は僕の後ろにピッタリとくっ付いている。

 ようやく平らな床に辿り着いた。再び彼女が前に立ち、通路を導いてゆく。彼女にとっては知り尽くした所であろう、躊躇いもなく進んでゆく。角を曲がり、彼女が立ち止まった。この前にドアがあるのだろう。彼女は片腕を解き、ドアのノブに手を掛けた。カチャリと音がして扉が開く……

                *

 光の洪水が押し寄せて来た。強烈な光が瞳を焼き尽くす。
 何も見えない。
 見えない事は闇の中と同じだが、光は直に痛みをもたらす。カチ・カチ・カチッと音がして、光が柔らかくなる。ようやく辺りを見る事ができるようになった。彼女の手が壁のスイッチに触れているのが見えた。闇に慣れた目に負担にならないように明かるさを調整したのだ。
 部屋には何もない。ただ、くたびれたベットが真ん中に置かれているだけだ。そのベットに彼女が誘う。
「そこに座って」
 言われるがままに腰を下ろす。彼女は腕を解き、僕から離れていった。
 入ってきたドアを閉める。部屋の明かりを中央を残して全て消した。
 彼女は部屋を一周する。
 僕は首を廻して彼女を追う。歩きながら彼女の手がファスナーに伸びる。
 更に周回を重ねる。上着から順に床の上に薄布が放り出される。僕は首を廻してそれを追う。
 彼女は螺旋を描く。
 彼女の服が床の上に点々と散らばる。ヘアバンドもイアリングも外した。既に上半身は何も着ていない。ハイヒールを放り出し、素足になる。ストッキングに手が係る。クルクルとまるめて脱ぎ捨てる。クルクルと僕の目も回ってきた。
 やがて螺旋の軌跡は一点に収束する。
 ベットの前、最後の一枚を手にして彼女は立ち止まった。

                *

 全裸の彼女は真っ直ぐ、僕に向かって歩いてくる。クルクル廻る螺旋運動の反動で、僕の体は左右に揺れる。揺れながら、いつのまにか僕も服を脱いでいた。彼女が近付くにつれ、左右の振れの幅が大きくなる。彼女が僕の前に辿り着くのと同時に、僕はバッタリとベットの上に倒れてしまった。差し出された彼女の腕が僕の腕に絡み付いている。彼女も引きずられて倒れ込む。二人はベットの上に折り重なった。
 フッ、と灯が消える。
 耳元で彼女の吐息を聞いた。彼女はクスクスと笑っていた。素肌からもろに彼女の体温が伝わってくる。彼女は手足を絡ませて密着してくる。僕の胸の中で彼女の形の良い乳房が潰れてゆく。彼女の髪が垂れて僕の顔を覆う。目の前に彼女の顔がアップで迫る。
 と、突然、視界が歪んだ。
 グニョグニョとアップになった彼女の顔の輪郭が流れだす。僕の目が変になったのかと思ったが違うようだ。彼女の頬の肉が溶け落ちる。眼球が垂れ下がる。手も足もチーズがとろけるように僕の上にのしかかってくる。
 それは、彼女だけではなかった。
 シーツが意思を持ったように動きだし僕を捕らえる。腕や脛に巻き付き僕の動きを封じ込める。ベットが形を崩し、とろけた彼女と共に僕を飲み込もうとしている。
 闇に慣れた目が、部屋全体を捉える。部屋は赤く色を変え、更に変貌を遂げていた。グロテスクな曲線で描き出されたそれは、生物の胃袋そのものであった。
 僕は今、この部屋に消化されようとしている。


−了−


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