水の中で笑っている。

 湖に突き出した桟橋に腰掛け、ぼんやりと泳ぎ去る魚を見ていた。淡水湖のため、あまり大型の魚は見られないが、それでも30\を越す奴も中にいる。熱帯魚のような彩々のものは居ず、湖底の石ころと同じ灰色に近い色をしているが、彼らの泳ぎを見ているだけで退屈はしない。時々、水鳥がやって来ては湖面に波紋を残してゆく。
 ボチャリ、と音がしてハッとした。
 水鳥の羽ばたき音もなく、突然に大きな波紋が広がってゆく。魚が飛び跳ねただけではこんなにも大きな波紋は生じない。
 ポチャリ、と再び音がする。先程よりは大きくはないが、音のした場所はほぼ同じところのようだ。さらに、波紋の広がりを確認して、それは確信となる。
 再再度、音がしないかと、その辺りばかりを見ていた。
 ほどなく、音がする。

 見た!

 女の顔が湖面から突き出ていた。なんと人騒がせな。このような所で素潜りをするような者は地元には居ない。しかし、美人だ。田舎のバタ臭さの全くない、都会派の美人だ。彼女は首から上を出したまま、腕を廻して泳ぎ寄ってきた。

「やあ」
 桟橋の上から声を掛ける。彼女はにっこりと笑うと、ポチャリと顔を沈ます。湖面の向こう側で彼女が微笑んでいた。腰掛けていると、彼女との距離が気になるので上着を脱いで桟橋の上に腹這いとなった。胸から先を桟橋の外に出し、腹筋を使って湖面に顔を近づける。
「やあ」
 もう一度言う。彼女は、水の中で笑っている。手を伸ばす。鏡に手を近づけるように、彼女の手も水の底から伸びてくる。水面を境にして、二人の掌が合わさった。もう一方の手も伸ばす。
 鏡に掌を当てているように、水面を挟んで二人の両手が合わさる。少し力を加えても掌の合わせ面と水面がずれないのを幸いに、上半身までも桟橋の向こうに乗り出させた。腹筋がぎりぎりと痛むが、彼女の笑顔がそんなことを忘れさせてくれる。ゆっくりと上半身を曲げてゆく。目の前に水面が近づく。更にその向こう。彼女の顔も近づいてくる。
 鼻の頭が触れる。額が触れる。
 首を傾げると彼女も同じ方に首を傾げるので、唇を重ねるわけにはいかない。
 焦れに焦れていった。

 もう、なりふりなど構わない。ぐっと足もちあげ、桟橋の縁に片足を掛ける。鏡に手をついているように、全体重が両腕に掛かっている。思い切り踏み込むと体は桟橋を離れ、水面に落ちていった。
 まるで、分厚い氷でも張っているかのように、湖面は体を受け止めていた。もちろん、水面を挟んで彼女の体がそこにある。手と手、胸と胸、腹は腹、足と足…
 この体の全体重を水面の向こう側から彼女が支えているのだ。

 あり得ない?

 そんな事は思いも拠らなかった。気づいていれば、先程から彼女は一度も湖面に顔を出していない。もう数分にわたって呼吸をしていないことや、彼女の指の付け根に水掻きがあることなども不思議に思っていたはずである。
 スーッと氷の上を滑るように、二人は湖の中程まで流されていた。

 そこで魔法は途切れた。

 彼女は湖の底に帰ってゆく。水面が鏡であるなら、彼女とは反対に体は天に昇ってゆくはずである。しかし、魔法は終わった。自然法則に従い、この体もまた彼女の後を追って湖の底へと落ちていく。ようやく、頭が回転を始める。
 何かがおかしいと、
 彼女は人間にあるまじき物であると、
 この湖の伝説を…

−了−


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